『西暦2236年 -Universal Edition-』感想:SFと哲学と理想と現実
夢と現実が曖昧になった世界。僕は自分自身にこう聞きます。
「過去と未来、どっちが長いの?」
すべての可能性、すべての現実、時間と意識の流れの中で
彼女と僕は、恋愛してしまった。
それは人類の否定 それは思出の棄却
まずはネタバレ無しの感想から。
2018年に発売された、全年齢版の『西暦2236年 -Universal Edition-』をプレイしました。
ジャンルの『わたしをフカンするノベルゲーム』の時点でやばい感じは伝わってきていますが、ゲーム紹介の文章はさらに凄いことになっています(冒頭の文章がその一部です)。
テレパシーが当たり前になった近未来、
西暦2233年、実験部でのヒメ・シオンとのやりとりから物語が始まり、
西暦2231年、二人のハル・シオンとの出会いを回想し、
西暦2236年、99件のメールが届きます。
ジャンルとしては未来を舞台としたSF×青春ものに分けられる、と思いますが、もはや甘酸っぱいどころでは済まされず、渋みがメインのような状態です。ヒーローでもなんでもない主人公の苦悩に寄り添い、願いや執着を持つ『私』というものを解剖し、残ったものをじっくりと観察します。
これをエンターテインメントとして純粋に楽しめる人はそうそういないんじゃないですかね。
今回私がプレイしたのは全年齢版ですが、性的描写はまあまああります。それも生々しい方向で。
背景に実際の写真や文字、図形を使ったりするなど演出は凝っており、独自の世界観が作られています。演出的にはエヴァンゲリオンもかなり意識しているとは思います。
とりあえずオープニングをみていただければ。
特に衝撃的なのは、最終盤の展開とエンディングです。
先の展開が分かったときは「もうやめてくれ」と思わずにはいられませんでした。
大人になって色々なものを引きずっているオタクをぶん殴るような作品です。
メッセージ性と引き換えにエンターテイメント性が犠牲になっている部分はありますが、
少なくとも私は、この作品をプレイして全く後悔しませんでした。
セカイ系ボーイミーツガールとSFが好きで、
かつ以下のような哲学的な内容にも興味があればぜひプレイしてほしい作品です。
・論理は経験に先立つのか
・言語と認識
・理想と現実
・原因と結果
こうして並べてみると哲学の多くの話題をカバーしているので、
哲学に触れるきっかけとしてもなかなか良いかもしれません。
以下、ネタバレあり
「本当は意味のあるものなんて一つも無いんです。全ては意味のない文字の並び。」
存在そのものには意味はないが、意味を与える存在であるアリスについての言及から。ウィトゲンシュタインの言語ゲームを思い出したりもしましたが、ソシュールの言語学の方が分かりやすいかもしれません。
ソシュールの言語学には記号の役割として、「シニフィアン(意味しているもの)」と「シニフィエ(意味づけされているもの)」という考えが出てきますが、シニフィアンとシニフィエの間には特別なつながりはないとされています。
つまりは、シニフィアン自体は他と区別さえできれば何でも良いということになります。例えば、「海」という物体を指す言葉は必要ですが、言葉自体は「みう」でも「つみ」でも良かったかもしれません。
なぜ「海」を指す言葉として「海(うみ)」が選ばれたのか、それを決めるものが『アリス』ということなんだと思います。
「ハルはバニラの香りがするけれど、バニラの香りはハルじゃない。」
ここもアリスへの言及が始まった場面ではありますが、記号の無意味さとは少し意味が異なっている気がします。記号というよりは因果についての話で、ヨツバ君の見ている『夢』で例えると以下のような感じになります。
そもそも幸福ってなんだ、という話ではありますが。
①幸福なヨツバはハルと結婚している
原因:ヨツバは幸福である
結果:ヨツバはハルと結婚している
②ハルと結婚しているヨツバは幸福である
原因:ヨツバはハルと結婚している
結果:ヨツバは幸福である
ハルと結ばれる未来をひたすら探していたヨツバ君ですが、実際は「幸福な人は結婚しているかもしれないが、結婚する人が幸福とは限らない」わけで、原因と結果のはき違い(そこに意味を見出してしまう)も、『アリス』によるものということなのでしょう。
「夢、楽しかった?」「恋愛、嬉しかった?」
最終盤のシュウのセリフから。ヨツバが「恋に恋をしていた」ことを自覚し、ハルという人間を見ていなかったことが分かります。
ハルと出会う可能性があるあらゆる世界で、ハルとの関係は破綻しました。先ほどの因果関係でいうと、ヨツバの幸福の中にはハルの姿がなかったわけです。
まあそもそもが心理宇宙(願いが具現化する世界)の記憶を引きずっての結果なので、確かに破綻は免れないのかもしれません。
これらのセリフはプレイヤーにも向けられていると感じます。ノベルゲームで言うところのバッドエンドを繰り返した後のこのセリフは、セカイ系ボーイミーツガールを望んでしまったプレイヤーへ向けられた銃口のようです。
「誰かと結ばれることが幸福の条件とは限らない」については既に知っていましたが、バッドエンドのループ、主人公にとっての運命だった『99件のメール』の削除、ヒロインとの別れを実際に見せられるとなかなかしんどいものがありますね。
確かに『人は忘れる生き物』だと思います。
余談
"いま"の話
ヒメ√のところで「"いま"私の目の前にいるヨツバくんは、ヨツバくん、ただ一人だけなのよ」というセリフがありました。
アカシック図書館で世界に意味がないこと(全ては偶然であったこと)を知った彼らですが、それはすべての可能性を俯瞰できる立場にいたからこそであって、普通は"いま"のこの世界の事しか知りえないわけです。
私としては、可能性を俯瞰できる立場にない限りは、偶然も必然も変わりないように思えます。どちらにせよ、比較対象がないのですから。
「なりたい自分は自分ではないです」
C.S博士のセリフから。
今の時代、情報が氾濫しているせいか、子供でも大人であっても「何者か」になることを強いられているような感覚があります。テレビでは誰かのサクセスストーリーが語られ、書籍では自伝と自己啓発本の合いの子のようなものをよく見かけます。
人の認識や記憶はそこまであてになるわけではないですし、物語として再構築する時点でそれらしく「原因と結果」を作り上げているわけで、それらを上手く自らの人生に生かせるかというと、なかなか難しいのではないかと思います。
なりたい自分は今の自分とは違うものである、という当たり前の話ではありますが、
知らずのうちにヨツバ君のように『四角い三角形』を望んでしまっていないかは気をつけたいところです。
次回作
エンディング後に次回作の宣伝がありましたが、つまりは今作での『アリス』が主人公または重要人物ということですかね?
作中でも「壊れ始めた」や「精神病」など不穏な言葉が出ていましたし、なぜ『アリス』が世界を作り直すまでに至ったのかが気になるところです。
余談の更に余談ですが、無意味なはずの『アリス』がナンセンス文学(無意味の文学)という意味を持っているのはなかなか面白い話ですね。