鉛色の紙飛行機

ゲームについての感想など。

『サクラノ詩 -櫻の森の上を舞う-』を終えて※ネタバレ有り

1月から少しずつ進めていた『サクラノ詩 -櫻の森の上を舞う-』をTRUE ENDまで見届けました。
※ネタバレしかないのでご注意ください。

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前置きとして、
この記事が書かれた経緯をほんの少しの作品紹介も兼ねて説明します。
(そもそも知っている人しかこんな記事は見ないでしょうが。)

サクラノ詩 -櫻の森の上を舞う-』は、
2015年に枕から発売されたアダルトノベルゲームです。
2010年の『素晴らしき日々 ~不連続存在~』の流れを汲む作品であったほか、
そもそも2004年発売予定だったものが2015年に発売されたという事情もあり、
多くの期待が寄せられた作品だったようです。
私が素晴らしき日々をプレイしたのは2016年のことでしたが、
確かにサクラノ詩が当時話題になっていた記憶があります。

そういった背景から既に数多くの感想・考察記事が存在していますし、
作品に込められたテーマも「幸福の先への物語」という非常に哲学的なものでしたから、
中には3万字以上にも及ぶような感想記事を書き上げた方もいます。

こんな状況だと「わざわざ記事を作らなくても良いかな?」という気もしてきますが、
続編の『サクラノ刻 -櫻の森の下を歩む-』の完成が近づいていることもありますし、
プレイ後の疑問や感想をいつでも振り返ることができるようにまとめておきます。

何章が何の話だったのか分からなくなりそうだったので、感想は章ごとに区切りました。

・序 O wende, wende Deinen Lauf Im Tale Blüht der Frühling auf!

宮沢賢治の『春と修羅』の引用と、草薙健一郎の葬儀から始まる序章。
プレイ当初は遺産相続のくだりに裏を感じつつもただの導入としか思っていませんでしたが、
Ⅴ章を終えてもう一度見直すと、何気ない日常の価値やⅤ章の稟の心情など、新たに見えてくるものがあります。

調べるまで全く分かりませんでしたが、題はアドルフ・ベドガーの詩からの引用でした。
詩の意味としても、春の始まりを告げるもののようです。
この詩を元にシューマンが書き上げた曲が交響曲第1番『春』であり、
その『春』の第一楽章、第二楽章の名もそのままⅠ章Ⅱ章の題として使われています。
言われてみれば、確かにBGMにも「シューマン交響曲第一番的日常」という曲がありました。
私はクラシックにはてんで詳しくないので、聴いても元の曲に似ているのかどうかすら分からないのですが。

・Ⅰ Frühlingsbeginn

中原中也の『春日狂想』の引用から始まる章。
位置づけとしては、弓張学園美術部のメンバー紹介といったところでしょうか。
氷川里奈はともかく、川内野優美とトーマスは下ネタ方向に特化していたので、
日常会話(と言ってよいのか?)が個人的にはかなり苦痛でした。
確かにサクラノ詩はアダルトゲームですが、その辺りの会話を無理に入れる必要もなかったと感じます。

この章では稟がオスカー・ワイルドの『幸福の王子』を読む場面が印象に残っています。
Ⅴ章で王子が直哉、ツバメが圭であることに対してのセリフだったわけですが、この時点ではまず繋がりませんでしたね。

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・Ⅱ Abend

美術部全員の力で草薙健一郎の遺産、「櫻達の足跡」を完成させる章。
この章までなんだかよく分からないやつだった明石亘が急に格好良くなりました。
明石は才能でこそ直哉に劣っていましたが、芸術家としての信念では負けていませんでした。

「我々が何のために作品を作るのか……それさえ見失わなければ問題ない……。
 そこに刻まれる名が、自分の名前では無いとしてもだ……」

特に上のセリフは「櫻達の足跡」と共にⅥ章まで持ち越されていますし、サクラノ詩にとって重要な人物だったのだと思います。
今のところはサクラノ刻に登場するかが不明ですが、出来ればⅥ章後の直哉と語り合ってほしいところです。
なのに大学卒業後にやっていることがあれって…

・Ⅲ Olympia

御桜稟ルート。
稟の記憶を取り戻すために奔走する章。
廃ビルでの救出劇のように盛り上がる箇所もありますし、
草薙直哉の右腕の事故という出来事についても語られるのですが、
他の章と比べると登場人物の描かれ方が一面的なせいか、
あまりぱっとしない章だったように思えます。
御桜稟も長山香奈も、他章で重要な役回りを果たす登場人物だったためにそう感じてしまうのでしょうか。
エンディング曲の「Bright pain」も他のED曲と違ってジャンル的にはトランスですし、
あえて他の章と差をつけているのかもしれません。
あと立ち絵の稟の頭が大きくて見ていて不安になる。

・Ⅲ PicaPica

鳥谷真琴ルート。
愛と夢についての物語ですが、母と娘と姉弟の物語でもあります。
恋愛を描いた物語としてはこの章が最も読みやすくまとまっていたと思います。
後の「ZYPRESSEN」もとても魅力的な物語ではありましたが、
あちらは詩的な表現や伝奇要素など色々と特殊なので同じ土俵で語ることは難しいです。
ここで、中村家と鳥谷家の因縁、直哉と圭という芸術家の在り方、そして愛について語られますが、
思い返してみればサクラノ詩という作品全体に対しての伏線になっていますね。

「愛と、その他の全ては等価値なのかしら。天秤は釣り合っている?」
「俺と真琴の間には、愛以外はないのだ。
 他の深い絆も、傷も、過去も、何一つない。」

この章でモチーフとして度々登場する「かささぎ」ですが、学名が「PicaPica」だったと知って驚きました。「gorilla gorilla gorilla」のような理由なんでしょうか。
クロード・モネの「かささぎ」も良い絵でしたし、機会があれば見に行ってみたいですね。

・Ⅲ ZYPRESSEN

氷川里奈・川内野優美ルート。
全体で4つあるⅢ章の中では、この章が最も好みでした。
ゴッホの『糸杉』、宮沢賢治の『よだかの星』、中原中也の『春日狂想』と要素がこれでもかと詰め込まれていただけではなく、詩的な表現と独白、そして兎桐茸子さんの絵が合わさり、おどろおどろしさと美しさが両立した章となっていました。
加えて優美を通してレズビアンというセクシャルマイノリティの内面を描きつつ、
次章への橋渡しとなる伯奇伝承まで入れ込んだ上でここまで綺麗な結末に仕上げたわけですから、この章そのものが「綺麗なものは綺麗なものから出来ているとは限らない」を体現しているような気がします。
この「Ⅲ ZYPRESSEN」は優美の恋が成就する「marchen」へも分岐しますし、
語りつくせないほどの要素が散りばめられているとは思うのですが、やはり1週しただけでは読み切れません。

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元々この記事ではあまり画像を使わないつもりでしたが、兎桐茸子さんの絵が独特なのでここだけ。

・Ⅲ A Nice Derangement of Epitaphs

夏目雫ルート、ではありますが美味しいところはほぼ親父に持っていかれた気がします。
他のⅢ章である「Olympia」「PicaPica」「ZYPRESSEN」の伏線を回収する物語であったためか、雫という人物に対する掘り下げというよりは、稟、吹、草薙健一郎、フリードマンといった周辺人物にスポットが当たっていました。
直哉が『櫻七相図』を描き上げた後の健一郎とのやり取りは熱すぎましたし(文字の演出も含めて)、フリードマンと世界のワタール・アッカシも良い役回りをしていました。
彼らに対して、雫が果たした役割といえば、ヒーローに守られるヒロインでしかありませんでした。
もっとも、雫本人もそのことはかなり気にしているようでしたが。
恩を返すために女優業でお金を稼ぐ、となると急に物語が生々しくなりますね。

一つ疑問だったのは、中村家がやけにあっさりと「伯奇神楽鈴」を手放したことでした。
法に触れる行為を繰り返してまで血の濃さを保ち、伯奇を生み出すことに執着していたのに、です。
それほど金銭的に困窮した状況だったのでしょうか。

・Ⅳ What is mind? No matter. What is matter? Never mind.

草薙健一郎と中村水菜の馴れ初め。
夏目家と中村家の抗争、そして夏目屋敷に飾られている「オランピア」の理由がここで明らかになりました。
章の題にもなっているように、心と体についての会話が終盤に用意されていますが、
個人的に物語に絡ませるには少し無理があったように感じてしまいました。
物語としてはそこまで尺を取る必要があったかどうか分かりませんが、
心と体の関係は西洋哲学でも古くから議論されていたものですし、気になる話題ではあります。

そして、健一郎の独白で最も印象に残り、疑問でもあったのが以下のセリフです。

「人生にifなど無意味だし、そもそも、それはクソすぎる選択だ。」
「人生にifなど必要なく、
 だからこそ、俺はあの娘とあの場所であの季節に、必然的に出会ったのだ。」

サクラノ詩というゲームの構造として、
全てのⅢ章をプレイした後でなければⅣ章に進むことはできません。
つまり4つのⅢ章というifを経験したプレイヤーに対してこのセリフが突き付けられる訳ですが、
何を目的として用意されたセリフなのかがプレイ後の今でもよく分かっていません。
Ⅴ章が本当の終わりへと繋がる章であることを強調したかった?
あるいは以前プレイした『デイグラシアの羅針盤』のように、選択肢という考えの無意味さを説きたかったのでしょうか?※1

・Ⅴ The Happy Prince and Other Tales

王子の直哉と、ツバメの圭のお話。
時系列としてはⅢ章と同時期にあたり、圭のためにもう一度筆を取った直哉が「蝶を夢む」を描き上げます。
直哉の「蝶を夢む」は圭の「向日葵」とともにムーア展にノミネートされますが、
授与式当日、圭は直哉の絵を見届けることなく交通事故で亡くなってしまいます。

この章で違和感を覚えた箇所は、直哉が自らの夢である「圭と共に世界的な芸術家になること」を唐突に語りだし、これまでの滅私奉公の行いが本当に正しいものであったかどうか問う場面です。

4つのⅢ章では、直哉が自らの夢を語ることはなかったと記憶しています。
Ⅴ章の状況としては「PicaPica」が近いはずですが、
それでも直哉は真琴のためだけに絵を描きました。
ある意味、直哉が夢を思い出すこと、そして圭と絵を競うことを徹底的に避けているようにも感じられます。
直哉は真琴だけを愛していたために圭に絵を描かなかった、という解釈もできますが、
この未来を既に知っているかのような直哉の行動について理由をこじつけると、
それぞれのⅢ章「Olympia」、「PicaPica」、「ZYPRESSEN」、「Nice Derangement of Epitaphs」が直哉がⅤ章で見た夢だった、という結論も出てくるんですよね。
ちなみに、これならばⅣ章でのifの否定とも繋がりますし、
度々作中に登場する回文「なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな」とも繋がります。
実際どうなのかは作者の頭の中ですが、もしこんな仕掛けがあったら面白いなとは思います。

また、ここで自らの行いを否定する「ああ、俺が間違っていた」を選択すると、
Ⅵ章へ進むことなく、藍ルートに分岐してエンディング曲が流れることもなく終了します。
夢を失って愛(藍?)を得るという結末ですが、「PicaPica」での真琴と同じ結末を辿っているんですよね。
夢と愛はトレードオフの関係にある、というのもサクラノ詩の主題の一つかもしれません。

あとは、Ⅴ章終盤の稟と直哉の会話はやはり印象に残りました。
強き神は人を裁く絶対的なもの、弱き神は人と寄り添う相対的なものということなのでしょうが、
この対比がサクラノ刻でどう生かされるのかが楽しみです。
以下はⅥ章での直哉のセリフです。

「人が美と向き合った時、
 あるいは感動した時、
 あるいは決意した時、
 そしてあるいは愛した時、
 その弱き神は人のそばにある。
 人と共にある神は弱い神だが、
 それでも、人が信じた時にそばにいる。」

少し話がそれますが、フリードマンの「Damn it!」はかなり心に刺さりました。
口では金のためと言いつつも決してそれだけではない登場人物は、どの作品でも活躍しますね。

・Ⅵ 櫻の森の下を歩む

この章は、サクラノ詩のテーマである「幸福の先への物語」を描いた章だと思います。

「すべての最高には、最悪がべっとりとはりついている
 最高は最悪で、最悪は最高なんだ……」

「ああ、他人からみたらクソみたいな人生で
 クソみたいにどうでもいい時
 たぶん、俺たちは一番生きているんだよ
 楽しんでいるんだよ」

「幸福だって、酒と同じ、度合いがすぎれば、吐き気がする。
 そんなクソッたれなもんが、幸福なんてもんなのに……なのに
 人は幸福を望む」

『櫻達の足跡』に起きた事件を通して、学生時代の輝きを思い出した後半の直哉のセリフからですが、
不幸の裏返しとしての幸福と、行き過ぎた幸福について語られています。

そもそも不幸がなければ幸福が区別できないことのは分かるのですが、
もう一つは幸福を絶対的なものにしようとして度を過ぎてしまう、ということですかね?
つまり「あの頃は良かった」と思える過去がある時点で、ある意味幸せなのかもしれません(本当に?)。

次のセリフは、弓張学園の非常勤講師だった若田先生のものですが、
妙な懐かしさを感じました。
少し前まではこの手の話題を良く聞いていたはずなのに、
いつからかさっぱり聞かなくなったなと。

「特別な日。幸福な日。幸福な瞬間……まるでそれは、
 いつまで経っても開けられない秘蔵の酒みたいに、捕まえることが難しい。」

記事をまとめていて気づきましたが、
「櫻の森の下を歩む」はサクラノ刻の副題でもありました。
確かに弓張学園美術部を復活させる咲崎桜子、栗山奈津子、氷川ルリヲ、
川内野鈴菜、柊ノノ未、恩田寧(名前出てないけど)は登場していますし、
サクラノ刻の序章の役割も果たしていそうです。
この状態で5年も待たされたファンはかなり辛かったと思います。

最後に、
Ⅴ章から考えるに稟が圭の役割(直哉を世界に連れ出す)を引き継いでそうですが、
Ⅵ章でのフリードマンとの会話からしても直哉は弓張から動く気がなさそうなんですよね。
むしろ稟がいつか弓張に戻ってくることを信じている。

そしてサクラノ刻ファーストファンブックの「二人の天才が生み出す因果交流の光の物語である」についてですが、これは本当に稟のことなんでしょうか。どうも稟以外の誰かなのではという気もしてきました。

年内にはサクラノ刻の体験版が出てくると嬉しいのですが、
すかぢさんのTwitterを見る限り必ずどうやっても出すそうなので、ゆっくり待ちます。

あと生徒Cこと片貝さんには期待したいですね。
Ⅵ章での、飲み屋で直哉と雑談を続けているシーンは非常に気に入っています。
では、ここまでお読みいただきありがとうございました。

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※1 選択肢があったかどうかは過去を振り返った時にしか分からない。今が変わることは決してないのだから考えること自体が無意味、という話。